新学期始まって授業が一回り。3年目にしてようやく自分のペースでできるようになったように思う。神戸大発達科学部の授業は月曜5限(17:00~)で「表現の政治学」というタイトルで著作権文化論(F256教室)。今年こそはパクリ本の原稿準備のつもりでやる。やるぞ。やるかな。やるかも。集中講義の予定は法政国際文化学部のが8月上旬に「ポピュラー音楽論」、神戸発達が瓜生さんとタッグで8月下旬(予定)に「サブカルチャー論」です。ニセ学生向け掲示でした。


現代日本社会における音楽 (放送大学教材)

現代日本社会における音楽 (放送大学教材)

放送大学の今年から新開講科目のテキスト。北川純子姐からご恵投賜り「紹介してね♡」(やや脚色)と脅されたので紹介しないわけには立場上いかない。放送大学の音楽関係科目のテキストは柴田南雄〜徳丸吉彦の伝統がいまでもいきづいており、その時点での音楽学研究の現況を総括する優れたテキストが歴代編まれてきている(だが、我が師匠の手によるかの私小説ならぬ私音楽学テキスト2冊は謹んでその誇り高き例外とさせていただきたい(笑))が、本書もその例に洩れない2008年現在の日本の音楽学研究の関心を集約した一冊。一言でいえば、日本の音楽ならぬ「日本の音楽学」が形成されてきたコンテクストへの意識の高まり、という近年の斯界の研究動向を反映したテキスト。「日本音楽」がなぜか伝統邦楽のイメージにのみ集約され、「日本の音楽学」の正統がなぜか西洋クラシック音楽を中核とした特定の音楽実践の周囲をめぐっていたような研究文化が(少なくとも大学での音楽学の中では)雪崩のように瓦解した(しつつある?)光景の後に「さて現代日本社会で音楽学やりましょか」と腰を上げるとこのようにならざるを得ない、ということなのだろう。1章、4章、14章で描かれる「かつての日本音楽」の現在や、3章、5章で述べられる「クラシックの正典化装置」の現状、などにその雪崩の後の光景を鮮明にみることができるように思われてしかたない(少なくとも私が学生だった頃の「日本の音楽学」ではこういう視座はあり得なかったように思う)。ここ10年くらいの日本近代音楽史研究の隆盛がこのような視座を継続的に生み出してきたことは確かだが、そのような研究の隆盛(つまりは「西洋クラシックのオーセンティックな研究やってもなかなか喰えないからそれやってきた身体でもっと需要ありそうな領域にシフト」という個々の研究者の意識変化)は、それを促す下部構造の変容を反映したものにほかならない(もっともそれは下部構造とは相対的に自律したかたちで重層的に決定されているに過ぎない、と教科書的に付け足しておくのが正しい虚偽意識の作法ではある)。ので、「いま音楽学ってどんな感じなんですか」というあたりに関心がおありのむきにはぜひお勧めの一冊です。
ただ誤植が(笑)。音楽ソフト生産金額一桁違ってますよー。中河CGP論文は1999年ですよー。ほか。