「大きな物語はなくなった」というけれど

業績主義がはびこっているので若手中堅が発表する研究会がすごく増えた。学会だけじゃなく小さな研究会がとにかくいろいろな会合を週末毎に開催している。今日もひとつ研究会のチラシが入っていた。遠い海外のある地域で長年フィールド調査を行っているらしい若手研究者で、ある音楽ジャンルについての専門家であるらしい。そこにはトランスナショナル/ローカル、再帰的近代化、グローカリゼーション、云々といった流行の用語が並んでおり、そのような理論的視角にその音楽ジャンルを位置づけて論じる、といった主題であるらしい。
たぶん、その若手研究者が研究したいのは、遠い海外のある地域のある音楽ジャンル「そのもの」なのだろう。だが業績主義の昨今では、日本から遠く離れた地域の、日本では聞かれることもほとんどないその音楽を研究する意義はとても主張しにくい。「そんなこと研究して何の役に立つんですか?」でおしまいである。
だからそこでグローカリゼーションだのトランスナショナルだのといった「大きな物語」が頻繁に呼び出されることになる。日本とまったく関係なさそうに見える遠い地域の遠い音楽も、「大きな物語」を介して関係性を持っているのです、あるいは遠い地域の遠い音楽も、日本の慣れ親しんだ文化も、「大きな物語」の中で共に翻弄されるのが文化の現在なのです、等々。
ポストモダンこのかた「大きな物語は終わった」というけれど、むしろ個々の研究者が自分の狭いフィールドを掘り下げようとするとき「大きな物語」の看板が必要になる、という機会はむしろ増えている。ただその「大きな物語」の役割は昔とは大きく違っている。
その「大きな物語」はたぶん誰も(昔のマルクス主義や近代化論と違って)まじめに信じているものではない。誰も信じていない看板としての「大きな物語」。「グローバル化」云々というのはそういう現代のお伽噺の一つだ。