おもいつき

先日、ノイズキャンセリングヘッドホンを買った。ずいぶん安くなってたので。

SONY ノイズキャンセリングヘッドホン ブラック MDR-NC22 B

SONY ノイズキャンセリングヘッドホン ブラック MDR-NC22 B

これでiPodの音楽聞きながら繁華街歩いてみて、ようやくウォークマン論(細川さんとかイアン・チェンバースとかの)が言ってることが「聞き取れる」感じがした。つまりは、目の前の都市の視覚的光景と聴覚との(カッコつきの)「完全な分離」がもたらす感覚というのはこういうことだったのか、みたいな。オレは耳が悪いのか安物のヘッドホンしかつかってなかったからかどうなのか知らないけど、ヘッドホン・ステレオが視覚と聴覚を分離する、みたいな感覚をこれまであまり持ったことがなかった。だって普通混じって聞こえてるやん外の音。ノイズキャンセリングヘッドホンは(これも安物だから大したことないし、その「ノイズ除去」の感覚を「聞き取れる」ことに慣れるまでは少し耳の訓練がいる)、そのようなウォークマン論が前提していた視覚/聴覚の完全分離というモードをいくぶんかは感覚可能にしてくれたような気がする(もちろん質的にではなく、量的なことに過ぎないが。説明書によると75%のノイズ除去、しかも低音中心)。逆に言えば、これらウォークマンについての言説は、ある種の「集中的聴取」に依拠していた(洩れ伝わってくる外部のノイズを聴かず「聴くべき音楽」へと向けられる志向的聴取を仮定していた)と言えようかとも思う。言い換えれば、私にとってヘッドホンステレオの音は、ミシェル・シオンの映画音楽論でいう「オフの音」として聞こえていたわけだが、ノイズキャンセリングヘッドホンによって「物語世界外の音」として聞こえてくる(ような気がする)ようになった。まあそれも暗示効果が大きいのだろうが、概念の移行を促すだけの美的効果があった、ということではあるだろう。
こういう「相対的に聴覚の空間自律性を高める」聴覚デバイスというものは、まあ「これで世界が変わった!」とか興奮してマクルーハン的に持ち上げるようなもんではないんだろうけど、いくぶんかは聴取の習慣というか無意識を確実に変容させる。これつけて歩いてると確実にクルマの接近に気づきにくくなるし(いずれ「ノイズキャンセリングヘッドホンを街頭で使用するのを控えよう」みたいなキャンペーンが始まるのだろう。いらん世話)、あるいはこれまで見向きもしなかった音楽の新しい美的空間を開いたりもする(まだよくわかんないけどコーネリアスの音楽の景観異化効果は凄いね、これで聞くと)。で、思いついたのは、「なぜサウンドスケープ論が理論的に未成熟なのか」という問いと、このような聴覚空間の自律性を高める方向を志向しているデバイスとの関係を、うまくリンクできないかなー、ということだ。相変わらずどうしようもなく凡庸な思いつきで申し訳ないが、本人は都市文化論と聴覚文化論の理論的接点の構築、とかで割と盛り上がっている。アホですまない。
つまりは。サウンドスケープ論は、ヘッドホンとか携帯とかの存在を「聴覚分割体 auditory dividers」(まあこれはいま適当に考えた)みたいな概念で理論化していかないとうまく現状の都市空間の音響意味論を分節できないんじゃないか、ということです。シェーファーサウンドスケープ概念が彼の自然志向的な好みにずいぶんと寄っていること、んでメディア媒介的な聴覚空間を「音分裂症」みたいなネガティヴな概念化しかできなかったことはいろいろ指摘されますが、それは単層のレイヤーの出来事として都市空間の音響を概念化してしまう以上必然的なことだったのだろうと思うわけです。ゆうたら「音風景実在論」なんやな。でもまあ、ノイズキャンセリングヘッドホンみたいな聴覚分割体が大衆的に普及していったとき、そのような実在論はたぶんあまり意義がなくなる(というか聴覚倫理的な、聴覚分割体への忌避感(たとえばなんで電車内で携帯電話で話すと年配の方にいやがられるのか、とか)の産出母体としてはずっと意義を持つんでしょうけど、聴覚文化論にとっての理論的な発展性はその立場からはたぶん望めない)。ノイズキャンセリングヘッドホンのあの「モニターボタン」(音楽消して外部の音を通すボタン)というのは示唆的だよね。あれこそ「サウンドスケープデザイン・オートクチュール」の原初的形態ってやつじゃないのか。で、そういうのも「音風景」にしてしまって勘定に入れる。これでどうだ。視覚的な景観論が主観性をどうとりいれるか、みたいな話に移行してるわけだし(よく知らないけどたぶん)、それより先にサウンドスケープ論こそが(聴覚分割体のような唯物的基礎の広がりを捉えた上で)「音風景構築論」の方向で理論化されておくべきだったんじゃないかなあ、とか思うんですね。とりあえずはそこからメディア論とサウンドスケープ論と都市論の接合点を見出していかんとどうにもならんような気がする。
まあどうでもいい話だわな。でも本人はわりと面白いこと思いついたんでこの方向でいろいろ考えてみようとか思ってるので生暖かく見守ってやってください。こういった方向はどうやろ?>辻本さん