先週土曜日の芸術学関連学会連合、もとい、藝術学関連学会連合の著作権シンポジウムの感想をすこし。
前川さんの感想http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070616
秋吉くんの感想http://d.hatena.ne.jp/yasuhamu/20070617
個人的には、芸術学畑の人びとが多数を占める会場が、現行の著作権制度のありかたに対する疑念をあれほどまでにきれいに共有していた、ということにすこし意外な念を覚えた。あれ、昔はあれほどロマン主義エートスがゼミだの学会だのにはびこってたじゃないですか…(笑)といいますか。たぶん、ここ数年の著作権に関する言説が、制度の経済権的側面と美的権利の側面との乖離の諸相を知らしめてきたことが、必ずしもその議論を詳細に追うことをしなかった研究者(芸術学者)にも了解されていた、ということなのだろう(その功績はもちろん名和先生や白田秀彰さんや津田さんや、多くのネット上での著作権に関する議論に帰属するものだろうと思う)。そのムードを背景に、プレモダンの模倣概念と複製概念の危うい関係(島本さん)、非西洋社会の文化資源の搾取装置として機能する近代著作権システム(塚田さん)、映画・映像言説の中に埋め込まれた文化の反−所有の契機(兼子さん)といった美学的な見地からの批判(criticism)が、きれいに現行法制度が背景とする「美学的基盤」への批判として機能した、ということなのだろう(その批判がアイデンティティポリティクスと接続されることを指摘した岡田さんのコメントは示唆的だった)。
それらはある意味で「法制度に直接関わる当事者」でないが故の気楽さに立脚したものである、という側面があることは押さえておく必要がある(これは私自身の研究に対しても当然あてはまる)。だけど思うのだ。著作権に関する言説に一番欠けているのはそのような「非当事者」からの誠実な視点、ではあるまいか。主に著作者である人、メディア産業にいる人、現行著作権制度を維持する立場の人、著作物を使用する人、その他諸々の「当事者」たちの制度をめぐる政治闘争は確かに重要であろう(し、私も他方ではほんのわずか関わっている)。その一方で、著作権言説の外側に(別個の論理と価値をもって)存在する言説空間の中からみたときの、「この制度」はどのような姿をとっているのか(そしてどのような難儀とメリットが併存しているのか)、という点についての探求は、それと同様の重要性を持つのではないだろうか(「表現とアイディアの分離」といった現行著作権制度の基本コンセプトを、哲学者のフィヒテが案出したように)。その意味で、著作権制度の経済分析が法改善の指針の一材料となるのとちょうど同じような位置に、著作権の芸術学あるいは美学研究は立っていると思う。それは「非当事者」の議論だから無用、ということではなく「非当事者」であるからこそ、当事者の相反する利害の調停に資する論点をあぶりだす契機になるのではないか。

上記をまとめるとつまり「オレの研究は大事だから研究費よこせ」って言ってるのと変わりませんね(笑)。ここには別種の政治が働いていましてすみません…

あと、名和先生という希有の知識人を芸術学畑の研究空間に紹介するのも大きな目的だったわけで、口々に「名和先生は面白い」という感想を聞けてほんまによかったす。日本にはあと3人の名和先生と、あと3人の白田さんが必要だと思う(白田さんが4人もいたら互いに闘争をおっ始めそうなのが難題だが(笑))。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070608/126892/
ちょうど今日アップされました。日経ビジネスオンラインに名和先生の『イノベーション』(岩波書店)の書評を書いたです。

イノベーション 悪意なき嘘 (双書 時代のカルテ)

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ディジタル著作権

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