17日の藝術学関連学会連合シンポジウムで話した中身を(やっと)アップしておきます。
擬態としての「音楽学」と奇妙な近代の復活
http://homepage3.nifty.com/MASUDA/ronbun/strangemodern.html
この一週間は忙殺に次ぐ忙殺であったよ…。ほんの一週間前のことなのに遠い昔のことのように思える。これ話したときはまだクロアチア戦も始まってなかったのに、いまやオシム監督(候補)について云々しているようなありさまだ。いやはや。

まあそんなことはどうでもいい(ことにする)。先週は楽しかったです。前川さん(id:photographology)がタバコ吸わはる方だったのでたいそう心強かったおいらでありました。美学会でも喫煙者シンポジウムいつか実現しましょう(笑)。久しぶりにへべれけになるまで呑んで3次会の記憶がなかったことは秘密な。
でシンポジウム自体なんですけど、id:taninenくんの議論つうか異論つうかとも関連するけど、なんで「藝術」つーカテゴリをみんな純粋ちゃんにしたがるかな、という感想。あ、もちろん壇上の人はたぶんみんな「藝術なんざ不純でええやん」派だったんですが、フロアとかそのあとのいくつかのネットでの感想とかに対する感想として。家族的類似性でええやん、と思うんだけどだめなんかな。きれいきれいにお芸術護って、その門番やってたいのかな。「藝術」かどうかようわからん(けど「藝術」と似てるとこもある)ものをあつかって「藝術学」つう看板で料理するのはそんなに違和感あんのかな。「これは藝術なの?」という問いが「なんで藝術学なの?」という問いに直接連結する、という発想もよくわからん。藝術学なり美学なりはこんだけ古くさい思索の歴史があるわけだからその遺産を別の方法で使って面白いこと言えばいいのにな(で、その遺産にコミットする知的活動をゆるく「藝術学」と括って何が問題なんだろうか)、変に純粋な計算問題みたいにしてしまってもつまらんな、とか前川さんと鯨呑しながら放吟していた記憶がうっすらあるのだが(違ってたらすんません)、前川さんの言った「ビジュアルカルチャーという概念と「芸術」という古い概念の摩擦から生産的なものが見えてくるということもある」というのはまさしくその通りと思うわけで、「靴の方が便利だから草履や足袋は廃止して靴に一元化すべきだ」というのは違うと思うんよ。まあまたこの件は後日引き続きまたね。あと事務連絡も(いっぱいあるけど(泣))これも後日。