年度末校務の合間を縫って芹沢さんとこのSynodosで
セミナー行ったり(その節はお世話になりました)、
船場アートカフェでビデオクリップの話をしたりしてたのだが、手持ちのネタをやりくりしてあれこれ話しているうちに、いつからポップ音楽の演奏リアリズム―まあざっくりと定義すれば、視覚的に認識される演奏主体が聞こえてくる音と線的な対応を持つこと、とでもいえようか―が規範性を失ったのか、ということが気になってきた。言い方をかえれば、
Perfumeが口パクでも気にならなくなった感覚がどのように形成されてきたか、ということでもある。この
PSY・Sは打ち込み伴奏+ボーカルというスタイルを日本で大衆化させたユニットの嚆矢であろうが(まあ
YMOと
クラフトワークがその前にあるが)、
松浦雅也がこの後
ゲーム音楽(あるいは
音楽ゲーム)の世界に移行してったことを考えると、
ゲーム音楽の影響を強調する
中田ヤスタカとつなげてなにか言えそうな気もしてくる。つまりは電子装置による「演奏のシミュレーション」の経験の大衆化、そしてそこに演奏の真正性が付与されていく過程、みたいなところ。でももう少し敷衍すればこの手の打ち込みユニットって形式としては70年代のスーサイドが最初なのかなあ(自分で
事典項目書いてながら忘れてたが、ライブでは
カセットデッキで伴奏流してたんですね)とも思うし、あるいは50年代からの
アメリカのテレビの歌番組(
エド・サリバン・ショーとか。ほとんどが口パクであろうと思われる)の経験みたいなのが、いつの間にかポップ演奏の真正性の中に浸透していった、みたいに位置づけることもできるかもしれない。「バンド」とはかつては楽団であり、その構成員のみにより十全な演奏を行うことが出来た筈だが、いつしか「バンドメンバー」はバーチャルな存在となっていき、実際に聞こえてくる音と乖離を来すことが疑問にならなくなってくる。
ビートルズはかろうじて4人いたけど、B'zってドラムもベースもメンバーにはいない。
GLAYのメンバーにはドラムがいない(Gが二人とVo.とBの4人が正式メンバー)ことをどれだけの人が気にしているのだろうか。みたいなこととつなげて考えないと「○○ featuring
初音ミク」式の「バンド」の位置づけはうまくいかないかもしれない、なんぞとぼんやり考えるのであった。どうでもいいといえばどうでもいいんだけど。
そういえば思い出した。高校生の頃どっかでライブやったとき、共演したバンドがドラムだけ打ち込みで
X JAPANのコピーやってたな(笑)。「情けねー」とわれわれは陰で嗤っていたわけだが(といってもそのときわれわれがやってたのは
ボンジョビでオレはキーボード弾いてたと記憶する)、いま考えたらあれは
ジーザス・ジョーンズを先駆けてたよなあ!