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音楽文化学のすすめ―いま、ここにある音楽を理解するために

音楽文化学のすすめ―いま、ここにある音楽を理解するために

編者の皆様はいつもお世話になっている先輩方ですので「黙ってお薦め」な本なのですが、「音楽学ってなんだかよくわからないけど音楽学の勉強をしなくてはなりません」的な迷える音楽学生こそが正しく想定読者であることに留意。逆に言えば、大学における(芸術学系統から派生した)音楽研究の現状俯瞰に関心のない人にはなかなかひっかかりが持ちにくいのではないか、という気がする。南田論文で述べられるところの「音楽的オムニボア」であることから利益を引き出せる言説空間と、そうではない言説空間の断絶、とでもいいますか。この"Great Divide"(おおげさか)の存在をなかったことにしよう、あるいは「オムニボア」の側から埋めてしまおう、とする議論のいくつか(具体的に言えば実践系のもの―まあ、それは当然そうであるしそうでなければならないのだが)が、「音楽学の希望」と映るような構造(「応用音楽学」!)、それ自体を問題にしなければならないような気がする個人的に。たぶん、岡田暁生西洋音楽史―クラシックの黄昏』(中公新書asin:4121018168が無自覚に自覚的だったのはそのあたりの「決して埋めてはならない―埋めようとすると別のところに生じる―断絶」だったのだろう。

付記
仲さんや小西さんには申し訳ないんですが、やはり「音楽文化学」という腰の引け方にはちょっとなあ、という気が個人的にはいたします。テキスト向きの本だけに。むしろ「これが音楽学である」と厚顔無恥に宣言してしまうのが山口修イズムではなかっただろうか(笑)。私はある時から自分の専門分野を「音楽社会学」などと限定的に自称するのを無理矢理止めたんですが、それはおそらくは、Musikwissenschaftだのmusicologyだのの訳語の範囲でのみ活動する「日本の音楽学」の領域にとどまっていては、現在の音楽知(それはもちろん感性工学から文化研究、さらには評論にまで至る範囲のものです)に対して、「音楽学」のイニシアチブが確保できないのでは、と思ったからだと思います。むしろ「音楽学」の中身の方を自分の仕事で勝手に塗り変えてしまえ、教育指導要領を外側からでなく内側から変えてしまえ(「音楽史」や「音楽理論」の指し示す対象の方を変えてしまえ)、そして西洋人になんと言われようが「日本語圏では『音楽学』のカバーする領域は広いんですわーははは」と涼しく笑えるようにした方が面白いし楽だし役に立つし意味があるのではないだろうか、とか不遜にも思うわけなのです。おそらく山口先生から私が(勘違いと思い込みを伴って)受け取ることのできた数少ない教えのひとつとはこれだったのでしょう(いかに私が不真面目な学生だったかよくわかりますがそれはもう仕方がありません)。