この夏は気仙沼でフカの心臓とかホヤの刺身とか喰って、与論島イカスミの塩辛とかイモ貝の酢味噌とかみしじ米とかもずくそばとか喰って、ついでに那覇首里そばをようやく口にして(ジューシーも実にうまかった)、鶴橋で焼き肉たらふく喰って、先斗町でおばんざい喰って、大阪定住を期してたこ焼き器を導入し山のように焼いて喰って、いずれにおいても泥のように呑んだくれておりました。気がつけば9月。船を出すのなら9月。夏休みの宿題をまったくやらずに始業式を迎えた小学生の気分ではあるが、幸いなことにあと半月くらいは猶予が…あるかな…。まあ夏休みがひと月ほど後ろに遅れているだけなのだが。

というわけでこの夏はさんざん散財したので(クルマも買った)9月の支払いが怖い。『ユリイカ』9月号のアンケート「わたしの理想の教科書」に答えております。飛び抜けてアタマの悪い回答で、実にほんまにオレはアタマ悪いなあと改めて思い知ったくらいなのですが、これで少しは家計の足しになるだろうか…(なりません)。


今日は夏休み最後のイベントとして、河内長野Konono No.1渋さ知らズオーケストラの競演を見に行った。渋さを生で見るのは初めてだったが、(当たり前だが)すごいなあと思った。人にアウラがないのに出来事にアウラが生じる、というのをポップ・ミュージックの文脈で立ち上げるのは大変なことだと思うんだけど、それを軽々とやっているように思えた。たぶん、複製メディアによる音楽経験が「規範的なもの」になったために、そこからの差異をどういった方法で立ち上げるか、ということが、「ライブ音楽」の課題になっているわけで、それへの一つの理想的な回答があったように思う。例えば、フルートの人がいるんだけど、まああの数十管大編成だとその音はまったく聞こえませんよね(笑)。でも、「ただ一つの音を増幅すること」と「複数の聞こえないかもしれない音を束ねて大音量にすること」の体感的な違い、みたいなものがあって、それが聞こえるか聞こえないかはあまり重要ではなく、ライブでのみ「感じ取れる」音の環境を生成させるべく「大音量を複数に分割可能なものとして出す(あるいは「耳を割る」)」ことのために、聞こえないけど鳴っている楽器が必要になったりする。だから渋さのノイジーな音楽は「雑音」として聞こえても、決して雑音とは「感じられない」のだろうと思う。

Konono No.1は…一言で言えば人力テクノでした(笑)。事前に抱いていた「コンゴノイバウテン」的なイメージとはずいぶん印象が違ったなあ。電気親指ピアノのサウンドよりも、強固なビートの印象ばかりが強い。アフリカ音楽の常に揺るがないパルスビート感覚というのは、日本人にとってはまるで機械のようで、感情移入の対象にすることを阻むようななにものかがどっかりとその中核を占めているように映ってしまう。たぶん、われわれは(慣れないサウンドに対しては)「メロディ」というか「メリハリ」がないとつらいのだと思います。音楽を物語のバリエーションとして捉えたい欲望、と言っても良いかもしれない。だから、「カラオケとテクノを融合させるのが今の若い日本人には一番フィットする」と看破した小室哲哉はやはり慧眼なのだった、と思う。

渋さ知らズ『渋さ道』asin:B000A3T0NA
Konono No.1ほか『コンゴトロニクス2』(DVD付き)asin:B000E1RJAE New!
 このDVD見てるとダンスの腰がまったく違うよなあ。腰。渋さの踊り手の人がKononoのアンコールで出てきたけど、腰が他の身体の部分と独立して振動するアフリカ人と、やはり「舞」や「踊」の概念と無縁ではいられない日本人、という対比が美しく現出しコラボレートを成した時間だったように思う。